たらればを考えるのは

 

「たられば」ばかりになるのは良くないからって言われるけど、私は、どうしたらよかったのか、あのとき病院に連れて行ってたら、とぐるぐる考える。

原因がいつだったのか、なんだったのか、症状が出始まったのはいつでどれなのか。

初期にわかりやすい症状はなかった、老化と思ってしまうようなものばかり、でも、あとになって考えれば、あれは体調不良だったのかと思えてくるものがある。

老化現象が始まったのかな、ではなく、一応病院に、と考えられていたら。

早めに診てもらっていたら。

未来を変えられたかもしれない。

初期治療で治って元通りのうちのこと一緒にいられたかも。

病気がすぐにわからなくても、命が繋がってまだ一緒にいられたかもしれない。

逆に、手術が早まって、もっと早くにお別れしなきゃいけなくなっていたかも。

手術が早まった分、後遺症は残っても、術後回復ができたかも。

変わる未来は、いくつもの道がある。

希望は、どんな形であれ、一緒に過ごす時間がのびてほしかった。

だから、たくさん考える。

 

「たられば」だと周りは言うし、「しょうがなかった」という考えにたどりつくように誘導される。それは、私を思ってそう言ってくれているのは理解している。

でも、しょうがなかったとはどうしても思えなくて。

思いたくなくて。

ネットでも、そんなふうに書いてあることばかりだけど、人間の都合のいいように考えたくない。

 

本当のことが知りたい。

「あのとき一応病院に」ができなかったのは、私の責任だ。それは間違いなく。

症状のひとつひとつに、老化現象かも、寒いのかな、前にもあったし、雨ばかりだもんね、と、理由がつくものばかりだった。

ペットドックが優秀だったから、うちのこが病気なんて考えもしなかった。

本当に、気付きにくい症状ではあったんだろうけど、1番そばでみてきたのは私。うちのこが頼りにしていたのは私。

きれいにまとめてしまうのは、人間の都合。

私にも責任があって、それを受け入れないと、ずるいと思ってる。

 

思い当たる症状、それを大丈夫だと思ってしまった理由、それを考えていると、言い訳を並べているようで、自分が嫌になる。

もしかしたら本当に、病院にと考えるような症状じゃなかったのかもしれない。

病院にという症状だったなら、連れて行ってたはずだもの。

もう今はわからない。どっちなのか。

私がちゃんとみていなかったのかなと、自分が疑わしくなる。夫は、ちゃんとみてたよ、と言ってくれるけど。

小さい頃は、何も分からず、なんでもかんでも病院に行って聞いてた。その頃のマインドだったら、病院に行ってたかもと思う。

これまでの経験値から、様子をみるということを覚えてしまってた。

でも私、わんこと生活して16年だけど、犬を飼うこと自体は初めてだったんだ。

 

私に責任がないわけない。

あのとき病院にと思えるタイミングがあったんだから。

たとえその時病院に入っても病気がわからなかったとしても、「あのとき病院に入っていたら」ではなく、「あのとき病院に行ったのに」と思えていたはずだ。

 

うちのこと、もっとずっと一緒にいたいから、大好きだから、考える。

大切なうちのこに、ずるい自分でいたくないんだ。