うちのこが長いおでかけに出てから、炊事ができなくなりました。
ごはんを食べていると、「うちのこ食べたくても食べられなかったのかも」と考える。
気づいてあげたかった。治してあげたかった。せめてごはんだけは美味しく食べさせてあげたかった。好きで食べられていたものを、多いくらいあげていればよかった。
うちのこは食べたいだけ食べられてなかったかもしれないのに。どうして私は。
なのであれから、ごはんを食べることは私にとって作業になっている。
何が食べたいとかもない。
包丁を使いたくない。
ごはんを作ることも、食器を洗うことも、今はできればしたくない。
もともと嫌いだった食器洗いだけど、うちのこのお皿を洗うのはなんの苦痛もなかった。むしろ喜んでやってた。
だから、食器洗いが嫌いじゃなくなってた。
洗いながら、どこに座ってるかなって部屋を見渡したり、日向ぼっこしているうちのこをながめてた。食器を洗っていると、カウンター前の椅子からピョコと顔を出して見に来る時もあった。
キッチンに立っている時にトイレして「ねえ!したよ!」って言われて「トイレしたのね!上手ー!いいの出たね!ちょっと待ってね、あとでね。」って会話をしょっちゅうしてた。
ああ、だから私、食器も洗えなくなっているのか。
洗えなくなってから、月に一回しか使っていなかった食洗機をたくさん使うようになった。
そうなって気がついた。
手洗いしてた30分のぶん、うちのこと触れ合っていられたんだ。もっと食洗機使っていればよかった。
ごはんもデリバリーにしたら、作る時間の分キッチンに立たなくなった。ああ、その時間も、うちのこの相手をしてあげられたんだ。
食器洗いの時間、ごはんを作る時間が、とても無駄に思えてきた。
1日で数時間も変わる。
週に何回も、食洗機やデリバリーで時間を作って、夕方の散歩に行ったりうちのことの時間にしてあげていたらよかった。
自分で作って、自分で洗うことが、いいことだと思ってた。
必ずしもそれがいいとは限らないんだ。それをしない代わりに、できることがあった。
食洗機とデリバリーは、「今日は自分でできないから使う」んじゃなくて、「今日は使って、違うことをする」って、使い方が、できたらよかったんだなあ。